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母の姉の結婚式に出席している記憶
少しきれいな格好をして、その結婚式で私は同い年くらいの子どもにハンカチ遊びを教えてもらうのです。
そのときの話を小学生くらいの私は母にしました。小さい頃まゆちゃん(母の姉)の結婚式でねこんなことあったよ、って本当に何気なく話したのです。
でも反応は想像と反して え?何を言っているの というものだったことを覚えています。
そう、その日、私はまだ生まれていません。
でも、記憶では足は地についていたのです。教えてもらったハンカチ遊びもよくしていた。
落ち着いて時期を逆算すると、まだ母のお腹の中にいたはずなのです。
どこからともなくやってきた記憶。
その記憶が夢となって私に見せて、夢が縁のついた記憶となったのでしょうか。
熱を出すと必ず見る夢
真っ黒な空間でチャックがジェットコースターのようにうねりくねり無限に続いている。
チャックというのは洋服についているあれです。
開けるんじゃなくて閉める方。閉めても閉めても終わりが来ない。
誰かの手があって閉めているわけではない。
勝手に閉まっていく。
非現実的なのに妙にリアルで、それはいわゆる悪夢。
苦しくなって目が覚めます。
金木犀
ふわっとたしかに秋を感じる要素である金木犀。
その金木犀が香ると、必ず鮮明に思い出す映像がある。
落ちている金木犀をビニール袋に詰めればいい香りがする、ぎゅっとここに集めよう、と思いついた5歳の私は通っていた幼稚園の園庭に咲いている金木犀の下でしゃがみこんだ。
しかし脳を走る記憶の映像が見せるのは、私がしゃがんでいる画なのだ。
床に落ちている金木犀ではなく、それを集めている私。
私の経験のはずなのだから、見えるのは前者であるはずなのに、思い出すのは第三者の視点ような記憶なのだ。
この記憶を信じると、もしかしたら拾い集めているのは私じゃない女の子で、私は拾っていたわけではなくそれを見ていただけなのかもしれない。
記憶ってなんでしょう。
思っている以上に曖昧です。夢が記憶となって、記憶が夢になって。
他人には分からない。自分にしかわからない。自分もわからない。しまいには淘汰する。
人生を振り返ろうとするとそれは記憶の連続で
さて、どんなだっただろう、と過去を思い返すときには、脳内の記憶を遡る。
思い出せなければ関係のある場所を訪れたり人物に会ったり、なんてするのでしょうか。
事象が変化していく中で、きっと写真は変化しない。写しているものは真実ではないが、自分の見た光景・情景に近い姿を保つ。これは写真に限った話ではなく、その姿かたちで残るものなら文章だっていい。
もちろん自分の記憶を信じてもいいと思います。
それくらい”確か”でないことのほうが思い出として心地よいと感じる人もいるでしょう。
長々と私の持つ夢と記憶の話をしてみました。
私が写真を撮る理由はそのあたりにあるなあと思ったので、言葉にしてみました。
25:00は私が入眠する時間
日常が、現実味を帯びないずっと夢を見ているような日々を送っています。