知っていますか。
学者たちの間でこの現実世界は”シミュレーションプログラミングの可能性が50%以上ある”と言われているらしい。 自分の視界は誰かに見せられている、用意されているなど、自分が感情や感じたことは、自分がそう感じるようにプログラムされている説は結構ある。
持っているであろう感情が実在しているかどうかは、すごく怪しい。
自分の意識が存在しているか初めて考えたのは、小5だかの国語のテスト中だった。
ローマ文明か何かの題材の文章の中で円形闘技場であるコロッセオが登場して、ぐるぐるぐるぐると、じぶんはもしかしたら周囲の客席に囲まれて真ん中に立たされて何者かに操られているのをただ見られているのではないかと。生きている上で自分の意識がない、あるように思わせられているような感覚。
今もよく考えるけど、初めての気付きがそのタイミングだったのをよく覚えている。
6年ほど前、大学の社会学の授業で「トゥルーマン・ショー」という映画を見た。
主人公である男性・トゥルーマンは生まれた時から人生の全てを24時間撮影されていて、そのままリアリティ番組『トゥルーマン・ショー』として世界220ヶ国で放送され続けていた。
彼の住む“世界”は巨大なドーム状のセットで、太陽や月、星々も機械仕掛けの照明装置に過ぎず、雨や雷鳴などの気象もすべて人為的な演出。
そして何より、トゥルーマン以外の人物は全て俳優であった、というストーリー。
小学生のときからぼんやり考え続けてきたことが形として目の前で広がる衝撃は忘れられない。
“自分の人生は誰かに見られている・楽しんでいる”
“喜怒哀楽やいわゆる人生の壁・試練というのは誰かに意図的に与えられている”
“自分も他人も存在しない”
だから実際に起こっていることよりも、自分がどう感じているかが人生のすべてである気がしている。
週刊少年サンデーで連載していた大高忍による「マギ」という漫画作品も、似たような題材を扱っていた。
政治や思想を絡めた世界でのファンタジーバトル少年漫画。
思い込みというのは、”ない”ものを存在させる力があることに気がついてからまた何かが変わった。
自分の認識している世界でしか物事は図れないのだからここで話したこともすべて、悪魔の証明にしか過ぎない。だからここでいつも考えることをやめて、でも気が付けばまた考えている。
自由意志がなくて受動的な価値観で生きる希望なんてあるの?と思うこともあるけれど、私は、未来には結構わくわくしている。